神社の由緒沿革


熊野信仰

 

 熊野信仰は、紀州和歌山の熊野三山すなわち本宮・新宮・那智の社を中心とし、平安時代に全国に流布した。当時、世に「蟻の熊野詣」と言われるほど多くの参詣人で賑わった。

 

  熊野神社は、全国に三千社以上、本県には277社ある。江戸時代には「熊野の起請文」が盛んに用いられ、起請文に書いたことを破れば神罰が下ると信じられ、熊野の神への畏敬を象徴するものであった。

 


熊野神社の由緒沿革

 

御祭神

 

   伊邪那美命 (いざなみのみこと)

 

   速玉之男神 (はやたまのおのかみ)

 

   事解之男神 (ことさかのおのかみ)

 

 当熊野神社は、縁起によれば、延暦2年(783年)に当社神職佐藤家の祖先・佐藤権守藤原吉次が、紀州熊野三社の霊夢(お告げ)をうけ、紀州熊野三社より勧請し御分霊をここにお祭りしたことに始まる。同年21年には、東征中の坂上田村麿の祈願をうけ社殿を建立したと伝えられている。その後小野篁が社殿を再営すと旧記に記されている。又、供僧六院、修験者の坊、流鏑馬の坊等があったとされる。

 

  社殿は、寛平(890年頃)天慶(940年頃)年中に、改築・補修が行われたが、應永17年(1410年)、領主磐前隆綱の落城の時に神領は悉く没収され、社殿もまた荒廃した。

 

  また、天文年中(1532~1555年)に火災にあい社殿・旧記を焼失す。その後、元和2年(1616年)に、磐城領を支配していた鳥居氏により社殿が建立された。現在の拝殿は、当時から雨覆いとして使われていたもので、本殿のみ明治18年4月に落成されたものである。

 

  明治には、政府による神社の社格制度の整備に従い、藤原村村社に列せられ、三大祭(祈年祭・新嘗祭・例祭)には、地方長官の指定により、村費より神饌幣帛料が供進された。

 

  昭和にはいり、常磐炭鉱の閉山に伴い、西部鉱口にあった山神様が当社に合祀されている。

 

  現在、藤原町の氏神様として町民の尊崇をあつめている。